私にとっては普通のこと。でも、多くの人にとっては…

障がい,障がい者手帳,障がい者,療育手帳,特別支援学校

 

私には、重度の障がいを持った妹がいました。そのため、物心ついた時から、障がいを持った人たちが周りにいる環境で育ちました。
その後の人生においても、障がいを持った方々とかかわる機会が多かったように思います。障がいを持った方々のサークルでボランティアをしたり、ハローワークで障がいを持った方々の就労支援を行ったり、障がい者施設を運営する社会福祉法人で働いたこともありました。今ではほとんど忘れてしまいましたが、手話サークルに参加していたこともあります。
私は彼らと普通に友達になりました。車いすに乗った人と一緒に買い物に行けば、陳列棚の上の方にある商品は、私がとってあげます。一緒にお花見に行けば、彼らは私のためにベンチを探してくれます。
私にとってはこういう普通のことが、多くの人にとっては普通でないことに気づきました。障がい者とその介助者という図式があるように思います。何か特別扱いしているように感じることがあります。


障がい者というレッテル

障がい,障がい者手帳,障がい者,療育手帳,特別支援学校

「障がい者手帳」を取得するかどうかで、悩む人がいるのも知っています。「障がい者」というレッテルを張られたくはない、そう思っているのです。行政の支援を受けるために、手帳を持つ選択をする人もいます。
普通校に通わせるのか、特別支援学校に通わせるのかの選択にも、同様のことが言えるように思います。うちの子は普通の子と同じだと思いたい親心、できるだけ、普通の子と同じことをさせてやりたいと思う親の願い。一方で、生きていくために必要な訓練を受けさせるため、特別支援学校を選択する親もいます。
いろいろな考え方、いろいろな選択があります。
健常者にもいろいろな人がいるように、障がいを持った人にもいろいろな人がいます。なのに、障がい者だという理由で、何かのレッテルが貼られてしまうように感じることがあります。それは、外国人においても然りかもしれません。
子どもの頃、私は障がいを持った妹のことが一番好きでした。なぜなら、何の偏見も持たずに、何の期待も持たずに、私のことを見てくれるからです。(偏見や期待を持つことができなかったともいえますが…。)妹は私にとって、ありのままの自分に戻らせてくれる貴重な存在でした。