私(Kumiko)が大学を卒業して、まず初めに配属されたのが、大阪の十三にあるハローワークでした。それから、1〜2年ごとに担当する仕事の内容が変わりました。
多くの人たちに出会いました。いろんな生き方がある、いろんな人生があると知りました。私が20代の頃は、ちょうどリストラの全盛期、日本で終身雇用が崩れた時期でした。
リストラされたことを家族にも言えず、スーツを着ていつもと同じ時間に家を出て、いつもと同じ時間に帰宅するおじさんたち。金の切れ目が縁の切れ目じゃないけれど、リストラされた途端、奥さんに離婚届を渡されたという話もたくさん聞きました。まだ若かった私は、自分の父親よりも年上の男性に目の前で泣き出されて、平静を装いつつも、内心は戸惑っていました。
男性と女性の違いについても、たくさん気づきました。リストラされて自殺を考えるのは男性に多く、女性にはあまりいません。前職を聞かれて、「事務」や「営業」といった職種ではなく、「課長」や「部長」といった役職で答えるのも、男性に多く見られました。
いろいろな人が窓口に相談に訪れ、私(Kumiko)は大きく引き伸ばされました。世の中にはこんな人もいるのかと驚くこともしばしば。
所定の求職申込書に、たいていの人は名前・住所・電話番号の3つは書いてくれるのですが、ある中年の男性は名前しか書かず、書いていただけるようお願いしても、「今までずっと秘書が全部書いてくれて、自分はサインするだけだった。」との返答。「再就職先に秘書は一緒について行ってくれませんよ。」と言いたかったけど、さすがにその時は言えませんでした。
あるお母さんは、30歳の息子を連れてハローワークに来て、私が何か質問すると、息子さんの代わりにお母さんが答えていました。
私が「息子さんに質問しているのですよ。」と言っても、そのお母さんはなかなか出しゃばりがやめられませんでした。
淀川の河原で寝泊まりしている人にも出会いました。そこに至る経緯も人それぞれ。ある人は、妻子があり、知名度のある会社で働いていたにもかかわらず、事情があって、そのような生活をしていました。
中小企業の社長さんにもたくさん出会いました。いろんなタイプの人がいましたが、みんな一生懸命、会社を背負って生きていました。自分のことを考えたら会社を辞めた方が楽だけど、社員のためにと頑張っておられる方もいました。悩める経営者の姿をたくさん見てきました。
特に、雇用調整の助成金を担当していた時は、厳しい話もたくさんしました。リストラはしたくないけれど、このままでは全員共倒れになってしまう。そんな苦渋の決断も、見てきました。会社を経営していくということは大変なこと。一生懸命前を見て歩いて行こうとしている社長さんの後姿を見送りながら、「負けないで!頑張って!」と思わず心で叫んでいました。
そんな一つ一つの出会いが、今の私の宝となっています。